〜 ぜひ心にとどめたい言葉 〜

『「死ぬ瞬間」と死後の生』E.キューブラー・ロス著より

人が私のことをどう思うかは、彼らの問題であって、私の知ったことではない。

やりたいことだけをやる、というのは本当に大切なこと。そうすると、全身全霊で生きることが出来る。

子どもたちは、無条件の愛と、首尾一貫した確固たるしつけとによって育てなければならない。罰してはいけない。

多くの人は恐怖のために、生きるエネルギーの90%を費やし、日常生活の選択をしている。・・・もし自然な恐怖以外に何一つ恐怖のない生活ができれば、人生をフルに生きることができる。

「求めよ、さらばあたえられん。門を叩け、さらば開かれん。」
「学ぶものの準備が出来たとき、師は現れる。」

本来の自分とは、肉体、感情、知性、霊の四つの調和のとれた人間であり、本当の愛は要求もしないし、「もし・・・ならば」とも言わないということを知っている人間である。

他の誰かを打ちのめすことで誰かを救うことはできない。

私たちに必要なものはすべて与えられており、我慢できないものは何一つ課せられていない。何かが課せられているとしたら、それはあなたが背負うことが出来るから。あなたにとって必要なものは(欲しいものでないかもしれないが)すべて手に入れることが出来る。そして、あなたが成長するにつれて、与えられるものも課せられるものも大きくなっていく。それはあなたが欲しがるときではなく、あなたの準備が出来たときに、あなたのもとにやって来る。

人生のただひとつの目的は、精神的に成長すること。

学ぶべきことはいずれにせよ何らかの形で学ばなければならない。そして学ばなければならない理由は、あなた自身にある。

人を救うことはできない。救われた人は、救ってもらったおかげで学ばずにすんだことを、結局は学び直さなくてはならない。・・・自分でやらなくてはいけない。・・・救いの手を出さずに、相手が自分で学ぶのを優しく見守ること。愛とは、いつ補助輪をつけてやったら良いか、いつ外したらよいかを知ること。補助輪を外すのはつけるよりもはるかに難しい。でも結局は外さなければならない。

『死、それは成長の最終段階:続死ぬ瞬間』E.キューブラー・ロス著より

 そして、変化は人間が生きていくうえで常に起きるものだ。最終的な死、つまりこの世での死を直視し理解できれば、人生で直面する変化の一つひとつに向き合い、対処して、それを人生の糧に出来るようになる。自らすすんで未知のものに敢然と立ち向かい、勇気をもって見知らぬ領域に踏み込んでいくことによって、自分というものを探し始めることができる。自分を見つけることこそが成長の究極のゴールなのである。他の人びとと接触し、彼らとの対話に身を投じることによって、一人であることを超越して、自分自身と、そして他人と一体になる。このような生き方を貫けば、充実した人生だったと納得しながら、安らぎと喜びのなかで最期を迎えることが出来るのだ。

 人が目的のない虚しい人生を送ってしまう原因のひとつは、死の否認である。なぜなら、永遠の命をもっているかのように生きていると、今しなければならないとわかっていることを先延ばしにしがちだからだ。明日の準備として今日を生き、昨日の記念として今日を生きていると、一日一日は無為に過ぎるだけだ。逆に、朝目覚めたときに今日が人生最期の日になるかもしれないと十分理解していれば、人は成長するために、もっと本当の自分になるために、そして他の人間と接するために、その大切な一日の時間を使うものだ。

『心を鍛える禅のことば100』武田鏡村著より 2003.9.4up

とかく親というものは、子どもの先のことを思って、なにかと先走って教え込もうとしますが、それが一番効果があるのは、やはり子ども自信がそれを受けとめる力がついてきたときでしょう。その機を見逃さずに子どもに対応すること。それが親としての本当の愛情ではないかと思います。

同じように生徒を指導する先生も、生徒の能力や成長段階を理解することなく、一方的に教育しても、あまり意味はありません。生徒一人ひとりの能力や個性をしっかりと把握したうえで、指導しなければなりません。

現在問題になっている画一的な教育というのは、先生自身が生徒一人ひとりに対応する能力が欠落していることに、大きな原因があるように思われます。

いわば、当たり前のことを、当たり前にするということが、もっとも大切なことです。しかし、当たり前のことは、「あまりの近さに見る人もなし」といわれるように、ついおろそかにしがちです。

『安眠高臥、青山に対す』〜人生に対処する“六然”の教え

自処超然(じしょちょうぜん):いつ、いかなるときでも、自分を出して生き、出した自分にとらわれずに、自分を棄て去る。

処人超然(しょにんちょうぜん):いつ、いかなるときでも、人を活かし、活かした自分にこだわらない。

有事斬然(ゆうじざんぜん):いったん問題が生じれば、すべての力を出して、果敢に立ち向かって解決する。

無事超然(ぶじちょうぜん):何事も無いときには、心を平静に保ち、自分自身を見つめる。

得意澹然(とくいたんぜん):絶頂期や得意満面の時には、増長することなく、冷静になって自他を見つめる。

失意泰然(しついたいぜん):失敗したり、失意にあったときには、めげず、あせらず、心をゆったりともつ。

『死後の真実』E・キューブラー・ロス著より 

ほとんどの人は、人生の中で直面するあらゆる苦しみ、あらゆる試練や困難、あらゆる悪夢、あらゆる喪失を、呪いであり、神からの罰であり、何かよくないことだと考えています。でも、自分の身に起こるものに悪いことなど何一つないことに気づかなくてはなりません。本当に何一つないのです。どんな試練も困難も、最も辛い喪失も、また「もしそのことを知っていたら、とてもやってはこれなかった」と言わせるようなことも、全てあなたへの贈り物なのです。たとえて言えば、鉄は誰かが鍛えなくてはならないことと同じです。これはあなたが成長するために与えられた機会であって、この成長こそが、地球という惑星に存在することの唯一の目的です。美しい花園に腰を下ろして、銀の大皿に盛られたごちそうも待っているだけでは、成長なんてありません。病んだり、苦しんだり、大切なものを失ったりを経験して、現実を回避することなく痛みを受け入れ、呪いや罰ではなく、非常に特別な目的のために与えられた贈り物なのだと考えることを学んだときに、成長することができるのです。

『人生二度なし』森信三著より 2002.6.22 up

 真に頭がよいかどうかということは、その人に世の中の実際が、どこまでよくわかっているかどうか、ということで決まるのであって、学校時代に成績がよかったなどということできまるものではないと思うのです。それというのも、学校の成績というものは、概して暗記力の強い者が、よい点数をとるような仕組みになっていて、物事の実際に当たってどうしたらよいかというような、生きた判断力を基準として決められてはいないからです。

 実践の秘訣とは、要するに自分の思いついた考えは、時をおかず、ただちに実践に移すということであり、それには、一大決心、覚悟をもって、まるで断崖から身をおどらすようなつもりで、ただちに実行に移すことであります。

 真の読書とは、自分の生命を肥やすために読むものであり、したがって、あくまで自分の内心の要求にしたがって選ばねばならぬわけであります。すなわち流行に動かされないで、常に自分が心の底から読みたいと思うような本を読みぬいてゆくようでなければならぬというわけです。

back     menu